sui:
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ここでいう想像力とは、 こういう行動を取ったらどうなるだろうかといった「論理的・未来指向的想像力」ではなくて、もっと臆病な、こういう行動を取ったら他人はどう思うのだろうかという「他者関係に於ける想像力」である。
その前に、必要か分からないけれどコミュニケーションについて書くと、 おおよそ技術の進歩とはディスコミュニケーションを促進させる。利便性とは簡素化であるからだ。
買い物を例にとってみれば 商店街からスーパーマーケット、そして通販とより効率化しシステム化した。 そこには対面コミュニケーションの減少が見出される。 現代社会「コミュニケーション不足」が言われる所以はこの辺りの事だと思う。
それに反駁するように 「現代はネットの進歩によって、むしろコミュニケーションは幅広く増えた」 という言説がなされる。 これに対しては「然り然り」と思う反面、 どうしても虚構世界での虚構人格による虚構人間関係なのではないかと疑ってしまうこともある。まあ、現在ではリアルとネットの境界もかなり曖昧になっているのでどうでもいい。
言ってしまえば、上記の問題など問題にはしてない。上記を踏まえて論説を紡ぐと「人間はコミュニティ内でしか想像力が発揮されない」ということが問題となるのだ。商店街の地域共同体であろうとネットのSNSであろうと、 コミュニティが存在すれば、そこに人間関係に於ける想像力は発揮される。 発揮されているのだから問題にならない。
コミュニティが無いことによる想像力の欠如の分かり易い例としては「街中の他人」である。 街中=広く漠然とした意味での社会である。 この場合の社会はコミュニティ足りえない。 単純に広すぎるからだ。 見ず知らずの人間と、別々の行動・目的。 ここに共同体意識は生まれない。 故に他者は真に他人なのだ。
そして人間は真の「他」に対しての意識は極端に低い。「自国で起こっていることより、他国で起こっていることには理解が及ばない」ように 他人に対しての意識は低い。自分が街中を歩いている時に他人が居ても 「人が居るな」よくても「男か女か、何人グループか」くらいの認識である。
また、この認識は周りに居る他人の数によって変化する。
例えば、「人間に向けられる意識」というものが100あったとしよう。 全くの他人(真の他人)が周りに一人しか居ない場合 意識はその一人に100とはいわずとも、多くの意識が向けられる。 男か女か以上に「人相は、年齢は、髪型は、服装は」 そんなことまで意識するかもしれない。 もしくは「危ない人じゃないだろうか?」といった警戒の形で表れる。
対し、全くの他人が周りの大勢居る場合。 繁華街などを思ってくれればいい。 すると100ある「人間に向けられる意識」は霧散する。 割り算でいえば母数が大きい状態。 人間という情報の量が多いため、一人に対する処理が簡素になる。 また、この「人間に向けられる意識」の100は その個人、または同時並行に行われる行動(音楽を聴きながら、本を読みながらなど)、気分、体調、気候などなどの諸要因によって増減することは言うまでもない。
そして、この「人間に向けられる意識」こそ「他者関係に於ける想像力」の源である。 社会に於いて真の他人であっても、真の無関係とは限らない。 見た目、話し声、行動などなどによって 快不快の感情を、もたらしもたらされることは往々にある。 「見ず知らずの人たちが五月蠅くて不快だった」とか、そういったことである。
そこで想像力が発揮されれば、もしくは反省といってもいい 「もしかしたら自分の行動で見ず知らずの誰かが不快になっているかもしれない」 と思うのである。 これは、とても自意識過剰であり臆病なことであるが大事な意識だと思う。
また、想像力は過去の経験に多くを依存する。 上記のように「自分が不快になった」経験から 「他者も不快になる可能性」を想像するのだ。 神経質な人間はそういう経験も多いだろう。
故に、「不快になった」経験の無い者が 他人を思いやる想像をするのは難しい。 もしかしたら、社会にはそういった人間が多いのかもしれない。
最後に、 「人間に向けられる意識」からの「他者関係に於ける想像力」は コミュニティ内の人間関係の理論にも適応できるを書く。
例えば、友達というコミュニティ。 「友達100人出来るかな」の歌の通り、友達が100人出来たとしよう。 100人の友達が居ても、同時に直接的な人間関係(一緒に遊ぶ、電話をするなど)を結べるのは数が限られている。 そこに人間に向けられる意識の差は生じる。
また、50人のサークルがあったとしても、 そこのリーダーが同時に50人のことを十全に把握する事は恐らく不可能で、 それもまた人間に向けられる意識の差が生まれる。
意識にあるから想像力が生まれる。 他者は、無関係であっても感情を持つ一人間であり、 少々でも意識してみてはいかがでしょうという話でした。
